友人の車が突然動かなくなったので 、JAFがロードサービスで運んで行った。![]() 電気系統の異常とかで、バッテリーがあがったなどという、そんな生易しいものでもなさそうだ。 立ち往生した場所は、大阪市此花区の朝日橋付近。 たまたま同乗させてもらっていた私は、当初送ってもらうはずだった、JR環状線西九条駅まで徒歩で行くことにした。 友人は予定通り、この近くにある北市民病院 に入院されている、お知り合いのお見舞いに向かい、後はタクシー で会社 まで戻るとのことで分かれた。とはいえこの辺りの地理に疎い私は、きっち道に迷った 挙句、かなり年季の入った市営団地に出くわした。自分が西九条にいることは、間違いないようなのだが。 大阪市営木場住宅の名前に、おや と頭が勝手に回転し始めた。敷地への入り口には、嘗てこの辺が「木場町」であったことを示す碑があった。 「木場町」・・・まだ若い頃の両親が、一時期此花区木場町に住んでいたと聞く。 海抜0メートルどころか、此花は海より土地が低く、その頃はまだ堤防の整備もままならず、長雨大雨 に家が浸かることが多かったそうだ。大阪市内であっても、水洗トイレの普及が遅れていた地域で、不衛生極まりない状態だったことだろう。 古い話しだが、第二室戸台風の折は、一帯が水浸しになり、移動には手漕ぎボートを使ったらしい。 当時は木場運河とかがあって、安治川等の河川を使い、材木でも運んでいたことだろう。 狭い痩せた畑が点在し、貨物列車用の引込み線なんかもあったそうな。 当時父が勤めていた小さな鉄工所が、日立造船の下請け仕事が多く、その関係で工場内より、桜島(現在のUSJ近く)にあった日立造船に直行で出張することが多く、それで同じ此花にある木場町を新居の地としたそうだ。 雨漏りがして、南京虫やら蛞蝓やら鼠が同居するような、木造二階建てのあばら屋だったそうだが、新婚の両親 にとっては、それでもマイスィートホーム であったのだろうか・・・。両親が木場町を離れた後に、団地は開発計画のひとつとして建てられたものであろうが、それが最早老朽化してしまっている。 碑によると木場町は1943年4月〜1975年8月までの、32年間存在していた。 西九条となって区画整理が進んだ今では、木場運河も消え、堅牢な堤防が整備され、往時を伝えるのは、僅かに残るこの「木場」の名だけかもしれない。 この日私は道に迷ったすえ 、結局一駅先の野田駅に辿り着いて、そこから電車 に乗って、やっとこさ大阪駅に向かった・・・。![]() A Pesar de Todo by Paco de Lucia |
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